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毎月お朔(おついたち)に月次祭(つきなみさい)を挙行しています。
月次祭とは、月の初めに不自由なく生かされていることに感謝し、今月も神様に見守っていただきますようお願いするお祭りです。
祈願後季節のごはん物を召し上がっていただいております。
また、お神酒をお分かちいたしておりますので益々神様のお力が体の中にまで浸透していくことでしょう。
神輿とは神様の乗り物を言います。その神輿に神様を乗せて神社の外にお連れし街の様子を見ていただくとともに町の平安を祈り、神様の御加護をいただこうというお祭りを神幸祭(神輿渡御)といいます。この神幸祭は、岩槻城主阿部重次より奉納になった神輿によりおこなわれてきました。(寛永19年、1643年)
『岩槻に過ぎたるものが二つある「児玉南柯(こだまなんか)」と「時の鐘」』と言われている事は、岩槻在住の方ならご承知の通りですが、南柯は岩槻城主大岡家に仕えた教学者です。その南柯の書いた「南柯日記」の中に「久伊豆神事」と記されておりその様子が事細かに書いてあります。
江戸時代後期岩槻城主大岡忠烈(ただやす)、忠正(ただまさ)、忠固(ただかた)の時に書かれた南柯日記での神幸祭は、神輿は神社を出て明戸口から岩槻城裏門より城内を通り大手門を出た広小路で神輿を台に据え、そのまわりで神楽や舞、奏楽などがにぎやかに行われました。南柯はこれらを見るのはとても楽しみで「この戯楽をみているとこの世はまさに五風十雨だ」といっております。11歳の時に児玉家に養子に来た南柯は、『初めて「久伊豆神事」を見てから57年が過ぎ、古希(70歳)に近くなってしまった。子供だった私は白髪頭のおじいさんになってしまった』と感慨深い様子が描かれています。
つまりこの時代では、岩槻藩民の楽しみの一つとなっており、まさに、久伊豆神事は岩槻城の殿様をはじめ藩士、藩民をひとつにするパイプ役となっていたのではないでしょうか。黒奴踊りも行われていたのかもしれません。
明治の時代では明治18年岩槻警察の開庁祝に神幸祭が挙行されその先導として黒奴が登場したといわれております。(東京朝日新聞)
昭和の時代では、14回に及ぶ神幸祭がおこなわれました。その時の神輿は昭和3年、昭和天皇の御大礼(昭和天皇即位記念)を祝福し町ぐるみで作られたものです。江戸時代に奉納になった神輿は度重なる明治の火災で焼失されたか、朽ちてしまったと考えられます。
昭和8年の神幸祭では神輿の先導として「黒奴」が登場いたしました。「久伊豆神社外苑」と称する運動場並びに土俵が今の岩槻保育園の所にできたのを祝し神幸祭が挙行されましたが、48年ぶりに「黒奴」がお目見えするということで町中大騒ぎになり「東京朝日新聞」に掲載されました。その後「神輿」「黒奴」は、10月19日の例大祭の日に毎年登場するようになりました。
江戸時代と異なり神輿渡御の順路は、「久伊豆神社より出発―田中町―渋江町―久保宿町―大工町―丹過町―久保宿町―市宿町―新町―裏小路―天神小路―横町―林道停車場通り―六番町―元浅間―富士宿―新曲輪―太田町―諏訪小路―大手新道橋ぎわ迄―渋江町―田中町―久伊豆神社」の岩槻町九町を巡りもどってまいりました。岩槻城が姿を消し昭和の時代に入るとこのように変化を遂げていきました。
しかし昭和29年7月15日、岩槻市制祝賀記念を最後に神輿は神輿堂に眠ったままとなっていることは残念な限りです。
もう一座「神輿」「黒奴」を出すことを願い保存会を発足いたしました。
黒奴・神輿保存会入会にあたり、年会費おひとり3,000円。
皆様のご理解ご協力をいただけたなら幸いです。よろしくお願い申し上げます
〒339-0065 埼玉県さいたま市岩槻区宮町2-6-55 TEL:048-756-0503 武州岩槻総鎮守 久伊豆神社
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