由緒

久伊豆神社は今から1400年位前(古墳時代)欽明天皇の御代に祀られました。当神社の御祭神は大国主命(おおくにぬしのみこと)です。この神様は神代の時代より出雲大社に祀られている神様です。出雲族土師氏の東国移動によりこの地に勧請されたといわれています。久伊豆神社は元荒川流域に約60社現存しておりますが、平安時代に台頭した武家集団(武蔵七等)の影響によるものと考えられています。中でも元荒川流域に勢力のあった野与党と私市党の崇敬を集め久伊豆神社の名は広められていきました。
戦国時代には、神社の境内に別当寺である真言宗の光明院という寺院がおかれ、神事の執行はこの僧侶が行っていたそうです。一方太田道灌が築城した岩槻城の城郭内の鎮守としても崇められ、軍事の成功等を祈願したといわれています。以降江戸時代にわたる歴代城主より崇敬を受け、太刀・神輿・絵馬など数々の品が奉納されました。しかし明治8年1月の火災により多数の古文書や寄進物が消失されたことはとても惜しまれます。
江戸時代には、岩槻は城下町として栄え、外側は「元荒川」と「大構」で形成されていました。城は敵の侵入を防ぐ目的で「元荒川」と「沼」と「曲輪」で囲まれていました。町は「大構」という土塁で囲まれ、武家屋敷と九町からなる町家がありました。町を囲んでいた「大構」は高さ4m幅8m周囲8kmからなり、その上にはムクやケヤキなどの木が茂っており昼でも暗かったそうです。また、「金の屏風」といわれており岩槻町の人々の自慢の一つだったそうです。岩槻町の人々に奉納された灯籠・狛犬・記念碑・樹木など約100種あります。当時社会的に流行した「お伊勢参り」は岩槻でも例外ではなく、帰宅すると神社に必ずお礼参りをし記念に残るものを奉納する慣わしとなっていたようです。 明治になると廃仏毀釈により光明院は廃寺になりましたが久伊豆神社は城と町とともに歩み現在に至っております。