ご由緒

御由緒(ご創建から現在までの歴史)

~ご創建~

当久伊豆神社の創建は、今から約1500年前、第29代欽明天皇の御代と伝わります。東国に下った出雲族土師氏が当地に住みつき、開拓の神である大己貴神(大国主命)を出雲より勧請し、社殿を創建したのが始まりとされ、関東地方でも指折りの古社に数えられます。

平安時代には、武蔵野に有力な武家集団(武蔵七党)が勢力をふるい、中でも元荒川流域の野与党と私市党の崇敬を集めていました。

鎌倉時代の『吾妻鏡』には、建久5年(1194年)6月30日の条に「武蔵大河戸御厨久伊豆宮において神人等喧嘩出来の由その聞えあり。驚きおぼしめすにより、尋ね沙汰せしめんがために掃部允行光を下し遣わさると云々。」とあります。大河戸御厨とは旧埼玉郡と旧足立郡にかけての御厨の名称なので、現在の岩槻周辺か、その付近に「久伊豆宮」が存在したことは疑いないことです。しかし、この「久伊豆宮」が当社であるか否かは断定できません。

また、当社境内には、「青石塔婆」という板碑が立っており、その年号を見ると正和6年(1317年)、文保2年(1318年)、元亨4年(1324年)、貞和5年(1349年)、永禄3年(1560年)などとあり、鎌倉時代後期~室町時代における信仰の篤さを窺い知ることができます。

(青石塔婆)

戦国時代の武将で、江戸城を築いたことで有名な太田道灌が岩槻城を築いた時、城の天門(乾・北西)にあたることから城内の総鎮守として社殿を再建し、軍事の成功や子孫永永無窮などを祈願しました。さらに、天文19年(1550年)には岩槻太田氏第4代太田資正が社殿を再興するなど、戦国の名門である太田氏より崇敬を受け、厚く保護されました。

~江戸時代~

江戸時代に入ると、岩槻は江戸の鬼門に位置したことから重んじられ、老中クラスの譜代大名が歴代の城主として居城しました。慶長年間(1596~1615年)には、徳川家康が自ら江戸の鬼門除けとして祈願したといいます。また、同じく慶長年間には徳川時代の初代岩槻城主高力清長が50石の社領を寄進しており、以後江戸時代を通して歴代の城主から崇敬されています。さらに、将軍の日光社参においては、城主の主催により祈祷が行われました。歴代城主より奉納された宝物は、2代城主高力忠房より「鰐口」(元和元年・1615年奉納)、6代城主で老中にまで昇格した阿部重次より「螺鈿の鞍」(寛永9年・1632年奉納)、「神輿」(寛永19年・1642年奉納)、肥前国島原城主高力高長(2代高力忠房の子)より「大太刀」(明暦元年・1655年奉納)、13代城主小笠原長重の尽力による「宗源宣旨」(宝永4年・1707年発給)などがあります。

 

(螺鈿の鞍)                  (高力氏奉納の大太刀)

 

(宗源宣旨)

 

城主による社殿修理は、慶長14年(1609年)高力忠房、寛永18年(1641年)阿部重次、元禄元年(1688年)12代城主松平忠周、宝永3年(1706年)小笠原長重、享保16年(1731年)17代城主永井直陳などにより行われています。

また、文化文政時代(1804年~1830年)、昌平坂学問所にて編纂された『新編武蔵風土記稿』によると「久伊豆明神ハ新正寺曲輪ニアリ、当城ノ鎮護ニシテ城内及城下町ノ惣鎮守ナリ」と記されています。このように、久伊豆神社は岩槻城ならびに城下九ヵ町の総鎮守として、代々の城主より保護されてきました。そのことから、県内でも特に格式の高い神社として知られています。地元の人々からは「みょうじんさま(明神様)」として親しまれており、「手洗石」(貞享3年・1686年奉納他3基)、「力石」(元文5年・1740年奉納他3基)、「常夜燈」(安永6年・1777年奉納他10基)、「雨乞いの井戸」(文化8年・1811年奉納他2本)、「伊勢講記念碑・常夜燈」(天保10年・1839年奉納他23基)、「大山講記念碑」(大正3年・1914年奉納他1基)など、境内には氏子より奉納された江戸時代から平成のものまでの鳥居や狛犬、灯籠、石碑などが数多く建っています。

 

 

明治11年奉納の手洗石(「奉納」の文字は、高橋泥舟の筆跡)

 

元文5年奉納の「力石」

 

 

安永6年奉納の常夜燈      安政4年奉納の石灯籠

文化8年奉納の雨乞いの井戸枠

 

~明治から現在~

かつての久伊豆神社の境内には、別当寺である真言宗の光明院という寺院がありましたが、明治の神仏分離令で廃寺となりました。その面影は、境内にある石碑などに見ることができます。旧社格は、「県社」に列せられています。

現在の境内地は、約1万坪あり、元荒川の畔に位置し、広々とした杜の中に社殿が鎮座します。関東地方の平野部でも指折りの広さを誇りますが、江戸時代にはさらに広大な社領であったと考えられています。明治時代には、上知令(明治4年(1873年)、明治8年(1875年)発布)により、社領の広い範囲が国に没収されました。しかし、その後氏子総代を中心に社領取戻し運動が展開され、土地の奉納も多くあり、現在の境内地を形成しました。このことに関する記録は、書類上だけでなく、記念碑が建てられ、神社境内に数多く存在しています。

しかし、明治8年(1875年)1月に社殿が焼失し、神輿や多数の古文書、歴代城主からの寄進物が数点を残し悉く失ってしまったことは、まことに残念です。その後、明治15年(1882年)に本殿を再建、大正4年(1915年)には拝殿・神楽殿を新築、大正15年(1926年)には社務所を新築、昭和3年(1928年)に神輿を新調しました。昭和7年(1932年)に至り、境内の整備が進められ、当時の氏子総代で貴族院議員の斎藤善八氏から神苑(枯山水庭園)・石鳥居・玉垣・狛犬等多数の奉納があり、岩槻耕地整理組合からも鳥居及び現表参道を新設するなど、神域は一層荘厳さを増しました。昭和12年(1938年)には表参道入口(現中央公民館のところ)に大鳥居を竣工、昭和13年(1939年)には朝香宮鳩彦王殿下より孔雀を3羽下賜されました。

戦後は、神道指令により国家の管理を離れ、宗教法人化しましたが、人々の信仰は薄れることなく、現在まで多くの参拝者でにぎわっています。

 

「明治15年に再建された御本殿」    「大正15年新築 社務所」

昭和3年奉納の神輿

 

   

「齋藤善八氏より寄進された境内枯山水と孔雀鳥舎」

 

また、境内は昭和57年(1982年)埼玉県指定「社叢ふるさとの森」、昭和61年(1986年)「埼玉自然百選」に選ばれ、シイやケヤキ、サカキなど様々な古木が林立する緑豊かな森と情緒あふれる静寂感が人々から愛されています。昭和20年代までは、高さ50m、周囲に手をまわすとなれば大人10人かかり、樹齢1千年を超える関東一の「大杉」があり、県の天然記念物に指定されていました。その南側には、こちらも見事な「大松」があり、一層森厳な趣としていました。しかし、どちらも昭和20年代、枯死して危険な状態となったため、惜しまれながらも伐採されました。現在、「大杉」の跡にはメタセコイア(和名:アケボノスギ)が植えられ、高さ約30mの大樹となっています。この木は、化石が見つかるばかりで絶滅したと考えられていましたが、昭和20年(1945)に中国四川省で発見され、GHQのマッカーサー元帥より皇居に寄贈されました。神社の木は、この木の挿し木で、岩槻から宮内庁庭園課に奉仕していた小嶋源三氏より奉納されました。他には、県指定天然記念物に指定され、高力清長手植えと伝わる「大榊」があり、樹齢500年を超えるといわれていましたが、平成8年枯死しました。その後に県の天然記念物に指定されたのが本殿裏手にある「大榊」で、樹齢400年の大木でしたが、平成30年残念ながら立ち枯れしていることがわかりました。しかし、「大榊」の子となるサカキが自生し、境内一帯は、珍しいサカキの群生林となっています。旧岩槻市指定保存樹木の「モッコク」は、成長に伴い二株の根元が癒着した珍しいもので、目通りあたりから二股に分かれる見事な双幹です。二本の別の木がくっついて見えることから、いつしか縁結びの神徳が高いと信仰を集めています。

昭和10年頃の大杉(画像クリックで拡大)

緑生い茂る現在の参道風景

 

平成元年(1989年)には拝殿を増築、平成18年には社務所を改築しました。また、平成26年には東日本大震災に伴う本殿の耐震工事・拝殿の増築・参集殿を新築する「平成の大造営」を執り行い、10月18日・19日の両日には、仮殿にご動座いただいていた大神様に工事の済んだ本殿にお戻りいただく本殿遷座祭を秋季例大祭にあわせて斎行いたしました。総檜造の美しい社殿にぜひお参りください。

平成18年竣工 新社務所

平成26年「平成の大造営」遷座祭と新しく蘇った拝殿