ご由緒

久伊豆神社について

久伊豆神社(ひさいづじんじゃ)は今から約千五百年前の欽明天皇の御代(539~571)、出雲族の土師氏が東国へ移住するにあたりこの地に出雲族の親神たる大已貴命(大国主命)を勧請したのが始まりとされています。平安時代、武蔵野に勢力を誇った武士集団「武蔵七党」のうち野与党と私市党の崇敬を集め、その勢力下にあった元荒川流域に久伊豆信仰が広まりました。戦国時代、扇谷上杉家の重臣、太田道灌が岩槻城を築くとその城郭内に総鎮守としておかれます。それ以後、江戸時代まで城の守護神として歴代城主から厚い崇敬をうけ、太刀や神輿など数々の品が奉納されました。近年では平成二十六年「平成の大造営」を行い、多くの氏子崇敬者のご奉賛により社殿も新しく蘇り、その御神徳は益々高まっております。


関連内容 
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御祭神 大国主命

久伊豆神社の御祭神は、大国主命様と申します。“だいこくさま”として人々から親しまれ、全国各地でおまつりされています。多くの異称があり、記紀神話では、日本国を拓き、造り治め、人々が生活する上で必要な文化や技術を授けたことから、様々な御神徳を兼ね備えた神様です。また縁結びの神様としても信仰されております。この「縁」とは男女に限ったことではなく、友人、職場、社会など自分に関わりのある全ての事柄とのご縁です。私たちを常に見守り、目に見えないご縁を結んで下さっているのが大国主命様です。

様々な御神徳
縁結びの神・子授・安産の神・除災招福の神・商売の神・農工の神・医療の神

御祭神 大国主命

社宝

螺鈿鞍

螺鈿鞍

「県指定文化財]昭和37年指定
岩槻城主阿部重次より奉納された江戸初期儀式用の鞍です。
貝殻を漆塗りの表面にはめこんだ見事な螺鈿細工が施され、前部に「丸に鶴」の紋所が配されています。(寛永9年、1632年)

大太刀

大太刀

岩槻城主高力忠房の子高長が肥前島原城主になる三ヶ月前に奉納したものです。全長152,7cm 刃長108,6cm(明暦元年、1655年)
高力忠房は初代城主高力清長の孫で岩槻城主、浜松城主、島原城主を勤めました。嫡子の高長は島原城主を経て最後は仙台藩へ蟄居の身となり預けられますが、島原城主の時に沢山の大太刀を奉納しています。いずれも諏訪大社、太宰府天満、三島大社、厳島神社、出雲大社、熱田神宮などの有名な神社22社と埼玉では熊谷寺と当神社2社に奉納されました。刀工は、高力家発祥の地三河に住む高力長吉によるものです。当神社に奉納されたのは、初期の段階で当神社に対する思い入れがうかがえます。
参考文献 大名敦  「高力高長による太刀の奉納をめぐって」(「埼玉県立博物館紀要」23 1998年)
池田伸子「高力高長の太刀奉納について」(埼玉県立博物館紀要」24 1999年)

御輿

御輿

岩槻城主阿部重次により、神輿が奉納(寛永19年、1642年)されましたが、当時の神輿は火災により消失してしまいました。現在の神輿は、昭和天皇の御即位御大典を祝し岩槻町の氏子によって再調され(昭和3年、1928年)さらに当神社で修繕したものです。(昭和57年、1982年)
江戸時代の神輿は当神社を出て明戸口から岩槻城裏門より城内に入り城中を通り大手門という城の表門を出た広小路で神輿を台に据え、そのまわりで神楽や舞、奏楽などがにぎやかに行われました。その様子は、児玉南柯の書いた「南柯日記」にも描かれています。児玉南柯は岩槻城主大岡家に仕え藩内の教学等の発展に尽力した人ですが、まさに岩槻藩民と藩士の楽しみの一つであったことを分かり易く描写しています。

宗源宣旨

宗源宣旨

岩槻城主小笠原長重(おがさわらながしげ)の尽力により京都の吉田家から「正一位」の神階をいただいた時に発給されたものです。「正一位久伊豆大明神」と記載されています。
(宝永4年、1707年)
宗源宣旨とは、中世末から近世にわたり京都吉田家から各神社に位階神号、神職に免許状を授与するときの辞令。古来、朝廷から神社に位階献上の際白川家が執行していましたが、吉田神道の大成者吉田兼倶はこの白川家に対抗し、朝廷の宣旨に擬した免許状を神社、神職に発行しました。神階とは、神に授けられた位階であり正六位から正一位まであったとされています。他の神社に対する優越性を誇るものでもあります。

境内のご案内
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境内のご案内 伏見稲荷社 参集殿 拝殿 手水舎 健育塚 社務所 神苑 梅林 榛名神社 大榊 本殿 叶い戌 御神札所 孔雀小屋 神楽殿 放生池 明戸庚申 神輿堂 岩槻保育園 駐車場 厄割り石 北野天満宮