孔雀・黒奴

ひさいずさんの孔雀

久伊豆神社のシンボルである孔雀は旧皇族の朝香宮鳩彦殿下より御下賜戴いた末裔です。宮様から戴いた3羽の孔雀は歴代宮司や地元の方により大切に育てられ、現在では20羽近くまで殖えました。孔雀はその姿から高貴や繁栄の象徴として、また害虫を食すことから災いを取り除く益鳥として人々から愛されてきました。当神社では孔雀に「救邪苦」と漢字を当てて、その力を御守等にてお分かちしております

孔雀奉納に至るまで

昭和12年(1937)11月16日から17日にかけて埼玉県大宮岩槻付近で行われた軍事演習視察の為、当時陸軍中将であった朝香宮鳩彦王殿下は岩槻へご来臨されました。その際、岩槻の名士で元貴族院議員の齋藤善八氏が自身の洋館を殿下の御宿所として提供、応接役を務めました。翌年の昭和13年(1938)殿下は応接の御礼として白金宮殿で飼育していた孔雀を下賜すると沙汰(命令)されました。大変な栄誉を受けた齋藤氏は宮家から戴いた高貴な孔雀は岩槻町全体で享受するべきとして、岩槻町の総鎮守である久伊豆神社へ奉納し未来永劫、岩槻の町を見守ってもらう様にと考えました。
そこで境内にアールデコ調の洒落たドーム型の鳥舎を建設、同年3月9日馬場栄太郎社司(当時の宮司)、齋藤氏、秋葉保雄岩槻町長、氏子総代の長谷川宗七氏、島田友七氏らは東京白金の宮殿に参上、殿下より孔雀を3羽賜りました。その後、朝香宮様の孔雀は歴代宮司や地域の人々によって大切に飼育され、当神社のシンボルとして愛されています。

紙善当主・元貴族院議員 齋藤善八氏
紙善当主・元貴族院議員
齋藤善八氏
寄贈されたままの形が残る鳥舎
寄贈されたままの形が残る鳥舎
孔雀奉納を伝える新聞記事「孔雀を拝受 光栄の岩槻町」昭和13年3月10日付 読売新聞
孔雀奉納を伝える新聞記事「孔雀を拝受 光栄の岩槻町」
昭和13年3月10日付 読売新聞

朝香宮様について

朝香宮 鳩彦王殿下[あさかのみや やすひこ]

明治20年(1887)ご誕生
久邇宮朝彦親王の第8皇子。朝香宮家初代当主。妃は明治天皇第8皇女允子(のぶこ)内親王

朝香宮 鳩彦王殿下 あさかのみや やすひこ

「朝香」の称号は明治天皇より賜ります。その由来は父 朝彦親王が伊勢神宮の祭主であったことにちなんで伊勢の朝香(浅香)山から採ったといわれます。当時の皇族男子は軍への仕官が慣例であった為、陸軍へ入ります。30代の頃、フランスへ留学中に自動車事故に遭遇され、殿下は重傷を負います。そこで看病の為、渡仏した允子妃殿下とともに二年余りパリで過ごすことになりました。当時フランスではアールデコが流行しており、両殿下も大いに関心を持たれ、帰国された後の昭和8年、東京白金にアールデコ様式の宮殿を建てられました(現東京都庭園美術館)
宮殿庭園では孔雀をはじめ様々な小動物が飼われていたそうです。当神社の孔雀もその係累と考えられます。終戦後は皇籍を離脱され、殿下は熱海に隠棲。庭仕事や好きなゴルフなどをして過ごされたそうです。ゴルフがご縁で埼玉県朝霞市の市名の由来となった宮様でもあります。
昭和56年(1981)薨去。享年93歳

朝香宮邸(東京都庭園美術館)
朝香宮邸(東京都庭園美術館)
昭和12年11月 齋藤家西洋館前にて(中央が鳩彦王殿下、その右が齋藤善八氏
昭和12年11月 齋藤家西洋館前にて
(中央が鳩彦王殿下、その右が齋藤善八氏)
朝香宮邸(東京都庭園美術館)
資料写真提供:齋藤伊徳氏)

朝香家現当主 久伊豆神社にご参向

平成30年4月19日 朝香宮殿下孔雀奉納80年祭記念春季例大祭において、御来 賓に明治天皇御曽孫で朝香宮鳩彦王御嫡孫、朝香家現当主朝香誠彦(あさかともひ こ)様、同じく鳩彦王の御孫、大給乘龍(おぎゅうのりたつ)様、並びに両御夫人が 久伊豆神社にご参向され、祭典に御臨席されました。 祭典後、境内枯山水にて「しだれ桜」の記念植樹を行いました。

朝香宮家御当主、久伊豆神社にご参拝
朝香宮家御当主、久伊豆神社にご参拝

救邪苦御守・御朱印

孔雀くじゃくに「救邪苦」と漢字を当てたもので、孔雀の持つ力、苦しみや災いから取り除き、幸福をもたらす御守です。その御守袋には護符とともに当神社の孔雀の羽が封入してあります。毎月9日は「孔雀の日」として特別にお祓いした桐箱入りの白い救邪苦御守や御朱印もございます。

9日限定御朱印

9日限定御朱印

救邪苦御守(白)

救邪苦御守(白)

1,500円

救邪苦御守(紺・ピンク)

救邪苦御守(紺・ピンク)

1,000円

岩槻黒奴

黒奴・御輿の歴史について

『岩槻に過ぎたるものが二つある「児玉南柯(こだまなんか)」と「時の鐘」』と言われている事は、岩槻在住の方ならご承知の通りですが、南柯は岩槻城主大岡家に仕えた教学者です。その南柯の書いた「南柯日記」の中に「久伊豆神事」と記されておりその様子が事細かに書いてあります。

 江戸時代後期岩槻城主大岡忠烈(ただやす)、忠正(ただまさ)、忠固(ただかた)の時に書かれた南柯日記での神幸祭は、神輿は神社を出て明戸口から岩槻城裏門より城内を通り大手門を出た広小路で神輿を台に据え、そのまわりで神楽や舞、奏楽などがにぎやかに行われました。南柯はこれらを見るのはとても楽しみで「この戯楽をみているとこの世はまさに五風十雨だ」といっております。11歳の時に児玉家に養子に来た南柯は、『初めて「久伊豆神事」を見てから57年が過ぎ、古希(70歳)に近くなってしまった。子供だった私は白髪頭のおじいさんになってしまった』と感慨深い様子が描かれています。
 つまりこの時代では、岩槻藩民の楽しみの一つとなっており、まさに、久伊豆神事は岩槻城の殿様をはじめ藩士、藩民をひとつにするパイプ役となっていたのではないでしょうか。黒奴踊りも行われていたのかもしれません。
 明治の時代では明治18年岩槻警察の開庁祝に神幸祭が挙行されその先導として黒奴が登場したといわれております。(東京朝日新聞)
 昭和の時代では、14回に及ぶ神幸祭がおこなわれました。その時の神輿は昭和3年、昭和天皇の御大礼(昭和天皇即位記念)を祝福し町ぐるみで作られたものです。江戸時代に奉納になった神輿は度重なる明治の火災で焼失されたか、朽ちてしまったと考えられます。

昭和8年の神幸祭では神輿の先導として「黒奴」が登場いたしました。「久伊豆神社外苑」と称する運動場並びに土俵が今の岩槻保育園の所にできたのを祝し神幸祭が挙行されましたが、48年ぶりに「黒奴」がお目見えするということで町中大騒ぎになり「東京朝日新聞」に掲載されました。その後「神輿」「黒奴」は、10月19日の例大祭の日に毎年登場するようになりました。
 江戸時代と異なり神輿渡御の順路は、「久伊豆神社より出発―田中町―渋江町―久保宿町―大工町―丹過町―久保宿町―市宿町―新町―裏小路―天神小路―横町―林道停車場通り―六番町―元浅間―富士宿―新曲輪―太田町―諏訪小路―大手新道橋ぎわ迄―渋江町―田中町―久伊豆神社」の岩槻町九町を巡りもどってまいりました。岩槻城が姿を消し昭和の時代に入るとこのように変化を遂げていきました。
 しかし昭和29年7月15日、岩槻市制祝賀記念を最後に神輿は神輿堂に眠ったままとなっていることは残念な限りです。

平成20年久伊豆神社、岩槻商工会議所青年部有志を中心に神幸祭再興を願い保存会を発足いたしました。
皆様のご理解ご協力をいただけたなら幸いです。よろしくお願い申し上げます

黒奴・御輿の歴史について
黒奴・御輿の歴史について
黒奴・御輿の歴史について
黒奴・御輿の歴史について