ご由緒

久伊豆神社の神事(神幸祭・例大祭・岩槻黒奴)

宝暦6年(1756年)の由緒書きを基に、江戸時代における久伊豆神社の神事をご紹介します。

~通常の神事~

そもそも、久伊豆神社は、岩槻城本丸の天門(北西・乾の方角)に位置し、城主の武運長久や子孫永々無窮、城下町の安寧を祈る岩槻城と城下町の総鎮守でした。お城の城郭内にある「城主の祈願所」であったことから、神社の入口には新正寺口番所が設けられており、一般の出入りは厳しく制限されていました。しかし、12月31日の大晦日は、参詣人の自由な通行を許していました。また、境内には、江戸時代の石碑や灯籠が数多く残っていることから、手続きをすれば、一般の参詣も可能であったことが窺えます。

通常の城内安全と城主の武運長久の祈祷の際には、正月・5月・9月の年三度、3枚の板札を城内と大手門に打ち付けたと伝えられています。

徳川将軍の日光社参の折には、岩槻城主の主催で将軍の道中安全祈祷を神社で行うのを常としていました。また、城主の所替(領地を移しかえること)の際には、城内の安全と城主の武運長久を祈り、神社の御札を城内へ納めました。江戸藩邸も同様にして、奥方・若殿の順に渡され、家臣にも残らず配布されたといいます。

また、この地域は、水田稲作地帯が多かったので、旱魃には雨乞いを祈願することが多かったといいます。宝永年間(1704~1711年)には、久伊豆神社光明院や正福寺において五日間ほど湯立ち雨乞い祈祷が行われており、宝永六年(1709年)には城主から白銀五枚が下されています。

 

~祭礼・神輿渡御~

 

久伊豆神社神幸祭絵図(画像をクリックすると拡大します)

 

神事の中でも、岩槻宿内で特に大きな意味を持っていたのが祭礼(=現在の例大祭)です。祭礼は、歴代岩槻城主が主催となり、五穀豊穣・国家安泰、岩槻城並びに城下の人々の安寧を祈るものでした。寛永15年(1638年)9月19日に始まったと伝えられ、以後、毎年9月19日に行われるようになりました。(現在は、新暦で10月19日に斎行しています。)

祭礼のたびに、町名主が町奉行から集められ指示を受け、屋台やねり物、踊狂舞などが行われました。祭礼の際には「神輿渡御」が行われ、町をあげての盛大なものでした。神輿は、明戸口を通り、岩槻城裏門から城内に入り、大手門をでた広小路において敷物の上に神輿台が乗せられ、その上に奉安されました。神輿の前で祈祷神楽が奉納され、岩槻九町の人々は、神輿の脇などで見物したようです。「岩槻に過ぎたるものが二つある 児玉南柯と時の鐘」と詠われる岩槻の儒学者・教学者の児玉南柯は、「神楽・雑戯・童男女みな車上において舞う、しかして雷鼓とうとうと糸竹(糸は琴や琵琶、竹は笛や笙の類)を併せ奏で過ごす」「この久伊豆神事をみているとこの世はまさに五風十雨だ」などと日記に記し、祭礼のにぎやかさや感慨深く思いを巡らせている様子などを鮮やかに描写しています。また、「神もさそ 空にめつらし乙女子か 袖打ちふれる 舞のすかたを」「久かたの 天つ乙女の袖ふりて わたるを見れハ 心空なる」という二首の和歌を残していて、祭礼を楽しみにしていた様子が窺えます。

「児玉南柯の私塾で、後に岩槻藩藩校「遷喬館」県指定史跡・藩校としては、県内で唯一現存」

 

さらに、日光の赤奴、甲府の白奴と共に日本三奴と称されていた「黒奴踊り」も行われました。これは、町の若い衆80人ほどが郷士に扮装し、粋な黒木綿の半纏を着て身振りよろしく練り歩くもので、10万石並みの格式を持った大行列と伝わります。この行列は、金紋先箱・大傘・御弓組・毛槍・神輿・かご・警護が並び、その後に手古舞、各町内の山車などが続き、岩槻宿内を練り歩きました。行列は延々と20町(約2.16㎞)余も続いたといいます。

 

(昭和8年と現在の黒奴)

 

宵日には、城代家老・用人・寺社奉行・町奉行・横目衆が、明戸口を通り参詣するのが通例でした。特に祭礼日には、徒歩目付・町役人が神輿を神前まで迎えに来ました。そして、城内裏門には寺社・町奉行・横目衆、二の丸には城代・家老・用人が神輿を出迎えたといいます。また祭りには、城下九町の人々が行列をつくり、神輿の供をすることになっていました。このように、神輿を通してお城と城下の人々を結ぶ強い絆が生まれていたようです。

昭和3年の祭礼(神輿渡御)の様子

 

行列の順序をめぐり、旧市宿町と旧久保宿町が争論になることもあったと記録されており、このことは、一神社の祭礼というとらえ方ではなく、久伊豆神社の存在が、当時の岩槻宿内で大きな意味をもっていたことの現れとも考えられます。

神職は、祭礼が終了した後に、岩槻藩の江戸屋敷(江戸城の常盤橋門内、現在はパレスホテル東京やオフィスビルが建つ)へ御札を持参するのが通例でした。

しかし、「神輿渡御」は、時代の流れからか昭和29年(1954年)より姿を消してしまいました。「黒奴踊り」は、平成20年(2008年)に一足早く復活しましたが、神社祭礼にあわせて「神輿渡御」を復活させることが岩槻の人々の悲願となっています。

この祭礼は、現在まで連綿と続いており、春(4月19日)と秋(10月19日)に「例大祭」として斎行します。「例大祭」では、神社本庁からの献幣があり、献幣使が近在の神職約10名とともに行列を作って旧社務所から本殿まで進み、本庁幣を御神前に献じます。特に秋の「例大祭」では、神職は神社における最上位の正装にて奉仕し、平安時代を彷彿とさせる色とりどりの雅な行列を作ります。さらに、「黒奴踊り」の奉納と「孔雀の舞」の奉納があり、江戸時代の賑やかで格式高い祭礼を今に伝えています。

10月19日秋季例大祭の様子